novel-railwayのブログ

以前投稿した小説記事をこちらでアップしていきます。

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 3

浜松駅での停車時間は3分ほど、電化区間が浜松までの頃は、機関車の付け替えなどで長時間停車したものですが、最近はその時間も短くなり、弁当販売員にしてみれば、ここが腕の見せ所とばかりに張り切っているようです。
ホームでは発車ベルが鳴り響き、旅立ちの慌ただしさを盛り上げてくれます。


12:37 定時!!
ベルが鳴り止み、助役が旗を大きく振り上げているのが見えます。


汽笛一声、EF58の甲高い汽笛とともに軽いショックが乗務員室にも伝わり、特急つばめは大阪に向けて歩み出すのでした。
弁当販売員は、最後の1個をとばかりに小走りに走りながら弁当と釣り銭を渡しています。
浜松駅のハモニカ娘にも見送られながら、汽車は徐々に加速していくのでした。


さて、再び私は乗務員室からこれから先の停車駅の案内放送をしていくのでした。
「次は、名古屋14:00到着、岐阜14:30、米原15:22、京都16:21。終着大阪には17:00丁度の到着を予定しております。」


いつも通りの放送を流し、しばし、専務車掌室で待機していますと、乗務員室のドアをノックする音がします。
誰だろうかと、開けてみますと、朝から体調が優れないとして、薬を渡し、先ほども浜松到着前に声をかけたお母さんが血相を変えて立っていました。


「どうされたのですか?」


  「子供の様子がおかしいのです」


「判りました、列車内にお医者さんがいないか尋ねてみることにします。」


私は早速にマイクに向かい放送用のスイッチを再び入れるのでした。


「皆様にお知らせいたします、4号車に急病のお客様がおられます。お医者様はおられませんでしょうか。」


放送はしたもののあいにくお医者さんは乗車していないようです。
そこで、私はどうするべきか、名古屋まであと1時間20分はかかります、そこで私はとっさに本来は停車駅ではない通過駅で臨時停車させようと決断しました。


不安そうに立っている母親に、
「座席に戻っておいてください、善処します」
と告げて、私は最後尾の展望室に歩を進めるのでした。


展望室の前方乗務員室に彼は座っていました。


「黒田運転車掌、車内で急病の乗客がいるので、列車を通過駅のどこかで停止させようと思う」


私は、岡崎駅にしようと思うがと言いかけて。蒲郡の方が近いし、病院等もありそうだと独り言を言いながら、新ためて、


「蒲郡駅で臨時停車させようと思う」


と黒田運転車掌に告げるのでした。


少し驚いた黒田車掌でしたが、


「了解しました。」


そう言ってくれたので、そのまま先ほどの母親の元に足を運ぶのでした。


座席に向かうとぐったりした少女に姿が見えます。
かなり体調は悪いようです、私は母親に、声をかけ


「蒲郡で臨時停車する手配を今から行います」
と手短に伝えるのでした。


母親は、
「ご無理申し上げますが、どうかよろしくお願いいたします。」


そう言って、深々と頭を下げるのでした。


さて、この続きは次回とさせていただきます。


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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 2

9:00定刻に東京駅を出発した下り特急つばめ号は、有楽町の日劇を横に見ながらどんどん加速していきます。


私は、車内放送を済ませると、車内改札に向かうのでした。
私と同僚の専務車掌黒木君と手分けして、車内を回ることにしました。
車内は、用務客と思しき人が大半で、2等車では、国鉄パスを持った管理局の課長クラスや、会社の重役、時には国会議員も乗車しており、特急つばめは2等車も3等車もほぼ満員と言える乗車率でした。
私は普通車から順次検札をしていたのですが、3等車に乗車していた親子連れに声をかけられました。
聞けば、子供の気分がよくないとのこと、そこで私は、列車内に常備の酔い止めの薬を手渡したのでした。


横浜9:27定刻出発した特急つばめの次の停車駅は、沼津、しばし時間的にも余裕が生まれます。
やはり乗務中に乗客の安全確保は車掌の仕事ですので、特に気になると言えば、やはり東京から乗った親子連れでした。
体調が優れないと言っていた子供は、母親に寄り添って眠っているようでした。
私の姿に気づいた母親は軽く会釈を返してくれます。


私は、「お子様の様子は如何ですか。まもなく浜松ですが、浜松で下車することもできますよ」と、お伝えしたのです。


母親は、「問題はなさそうですのでこのまま大阪まで行けそうです」と申し出たので、私も安心して再び専務車掌室に戻るのでした。
そんな会話が交わされて、ふと窓外に目を見やるとホームに「しずおか」の駅名が目に入ってきます。


時計を見ると定時通過でした。
さすがに特急の運転士【甲組】たちのプロ意識は確かなものだと感心しながらも、専務車掌室で、しばし休息です。


静岡を通過すれば、あと30分ほどで浜松に到着です。私は到着10分ほど前から案内放送をおこなうため、マイクに向かいます。


長らくのご乗車お疲れ様でした。列車はあと10分で浜松に到着いたします。
浜松では3分停車いたします。
お忘れ物無きよう、後者のご準備お願いいたします。


1等車の乗客には年配のボーイがお客様の荷物をまとめて、準備している頃でしょう。
つばめガールも、下車するお客様に声をかけている頃かも知れません。


やがて列車は、12:34定刻に浜松駅に到着、駅ホームでは駅弁の売り子に混じって、ハモニカ娘がハモニカを籠に入れて立っています。
日本広しといえども、駅でハモニカを買えるのは浜松駅だけでしょう。


東海道線の電化が浜松までだった頃は、機関車の付け替え時間の間にラジオ体操が流されており、さすがに乗務中はラジオ体操はしないものの、ホームを見ると何名かの乗客がホームに降りてラジオ体操をしている人を見かけたものでしたが、それも昔の物語になってしまいました。


そんな浜松駅も3分の停車で、再び大阪ヘ向けて歩を 進めるのでした。
ここまでは順調だったのですが、この後・・・件の母親からの申し出で事態は急変することとなります。


そう、東京出発直後に薬を渡した女子の体調が急変したのです。


ということで、ここから先は次回に書かせていただきます。

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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記

久々に、妄想小説などを書かせていただこうと思います。
今回のお話は、昭和31年1月10日に、「特急つばめ」車内で症状がひどくなった少女のために臨時停車手配を行った車掌氏の手記を参考に妄想力全開で書かせていただくものです。


東京から乗車した少女の容体が急変、車掌の機転で、蒲郡駅で臨時停車させるて病院に搬送することが出来たとして、後日新聞にも「愛の臨時停車」として美談が載ったというお話なのですが、当たり前のことをしただけなのに、これを美談として取り上げられることに多少の違和感を持ってしまったということで、当時の手記が書かれていました。
この記事はその内容をベースに創作したお話になります。


何回かに分けて書かせていただこうと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。
なお、あくまでも妄想物語なので、登場人物はすべて仮名とさせていただきます。m(_ _)m


初めまして、私は大阪車掌区の勤務する中村というものです。
私は、15歳で大阪鉄道管理局に採用され、大阪城東線の京橋駅を振り出しに、車掌試験を受験、特急つばめが運転を開始してから3年後の昭和28年から、専務車掌として乗務することになりました。
当時の列車には、専務車掌である私の他に、後方の監視を担当業務とする運転車掌や、つばめガールに代表される列車給仕など、多くのスタッフも乗務していました。


さて、当日の話は後ほどお話しさせていただくとして、特急つばめのお話を最初にさせていただこうと思います。


特急「つばめ」は戦前は超特急として、東京から東海道本線の終点である神戸まで運転されていました。
当時は特急「燕」と漢字で書かれており、客車並びに列車はここからもう少し先の明石に機関区並びに客車区がありましたので、そこまで回送されることとなっていました。
戦後は、外国への船客も減ったことから東京~大阪間に運転区間が短縮されましたが、列車の受け持ちは引き続き、大阪鉄道管理局が受け持つこととなり、国鉄の伝統列車で有る「つばめ」号を引き続き大阪で、それも大阪車掌区が受け持つことは、とても誇りに思えたもので有り、私以外の多くの車掌も同様に誇りを持って日本一の列車を運転しているんだという自負はありました。
私たちは最高の車両で、最高のサービスを提供することを合い言葉に行動していました。


さて、この日も私は前日の「つばめ」に乗務して上京、乗務員宿泊所で休息し、翌日の「つばめ」で帰阪する行路となっていました。
当時は特急と言える列車は、この「つばめ」と「さくら」、それと山陽本線の「かもめ」だけで有り、特急列車自体が特別な列車で有りますから、先ほども書きましたが、客車を受け持つ宮原客車区は言うに及ばず、私たちが所属する大阪車掌区、そして宮原機関区でも特急乗車組は憧れを持って見られていたものでした。


当日は、7:00に宿泊所を出発、7:30には制服に着替えて点呼を受けることとなっていました。
東京車掌区での点呼はいつもの事ながら緊張します。
言ってみれば親戚の家に来たようなものですから。
点呼を終えて品川客車区でつばめに乗り込み、運転車掌の黒田君も乗務してくる。
その後、列車給仕のつばめガールも乗務、簡単に打ち合わせを行い。移動を待つことに、時計が8:20分を示す頃、列車は静かに動き出し、東京駅へ、展望車の先頭に機関車が付くのはこの区間だけに見られる不思議な光景と言えましょう。


当時は、大阪では塚本からのデルタ線を使って方向転換していましたが、東京でもで品川駅から大崎駅を使ってのデルタ線で客車全体の方向転換が行われていました。


そして、当時は始発駅で30分程度停車するのは当たり前で有り、9:00出発の「つばめ」号は8:33には、東京駅到着、すぐに機関車は先頭車に回すため切り離されて、横の機回し線と呼ばれる線路をすり抜けて先頭の荷物車に連結、既に荷物車では手荷物の搬入なども行われており、ホームでは別れの挨拶が行われているのでした。


客車は先頭大阪方から。スハニ35+スハ44+スハ44+スハ44+スロ60+スロ60+マシ35+スロ60+スロ60+スロ60+マイテ39という編成で、定員は3等車が定員288名【1両あたりの定員は80名】2等車は定員220名【1両あたり44人】であり、いかに当時の3等車【普通車】が詰め込みであったか判ります。【ちなみに、3等寝台車は定員60人、その後増備された車両は54人】とこれまた、詰め込み主義的な乗り物で、現在の水準では考えられないほど窮屈な代物でした。


さて、9:00発車ベルが東京駅ホームに鳴り響き、運転主任の発車合図を待って、EF58からの甲高い汽笛がホームに響き渡ると徐々に徐々に汽車はスピードを上げて動き出すのでした。
私は、8号車の2等車から顔を出してホームの監視を行います。
後方では、同じく運転車掌の黒田君が乗ってくれています。黒田君は大阪車掌区ではありませんが、機転の利く好青年ですので、やがては専務車掌として頑張ってくれることを密かに期待しているのです。
ちらっと、後ろを見てみると、真剣なまなざしで後方からホームを見つめています。
さて、列車がホームを離れると、案内放送も私の重要な仕事ですので、車内の案内と停車駅の到着時刻などを放送していくのでした。


その後、車内改札を行うのですが、このときは未だ、これから4時間程後におこる騒動など夢にも思わないのでした。

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